日本の歴史学者の怠慢

 「源頼朝の真像」 (角川選書、黒田 日出男、2011年発売)のアマゾンの書評には5件寄せられており、私が2014年に★☆☆☆☆「比較すべき資料が欠落しており、読むに値しない本」(https://dr-kimur.at.webry.info/202104/article_1.html)と酷評した以外は2011年から2018年に書評を書いた他の4人には好評である。ただし、このうちの1人は★★★☆☆ではある。この7年間は私だけが黒田氏の論証に疑問を呈しているものかと思っていたら、他社のhontoには読書家みーちゃんの書評(★★★★☆)が掲載されていて、「編集で失敗した本」、「表現にはあいまいなところがあって、実際にこの本で論じられるのは「歴史的に厳密に分析して、頼朝の姿としてもっともそれらしいものはどれか」」、「あくまで文献批判」、「どうも論の進め方が、先に結論があって、それに沿って解釈がなされる」、「もっと上手い論の進め方があったのではないか」、「無論、科学にしても数学にしてもこのように結論ありきで論が立てられていくのが普通なのですが、それで整合がとれたら、全体をもう一度組み立てなおすような努力は必要ではないでしょうか。」と問題点を挙げている。この★★★★☆の書評が私に他に本書の問題点を指摘している唯一の書評である。一言でこの読書家みーちゃんの書評を纏めると、「黒田氏は論理的に本を纏める能力がなく、知ってて当たり前という驕った姿勢で説明を省略していて、折角の内容が正確に伝わらない」ということだ。結果、書評では黒田氏の論証に疑問を呈しているものは見当たらない。

 黒田氏は本書発売時に「これこそ、現存唯一の源頼朝像である。」(http://www.teikokushoin.co.jp/journals/bookmarker/pdf/201204/14_mssbl_2012_04_p40.pdf)をPDFで掲載している。その4年後以降に、「知っ得! 日本史研究最前線!」に「源頼朝像はこれだ!」
https://www.teikokushoin.co.jp/journals/history_japan/pdf/001_201606/02_history_japan_001_p01_02.pdf)を掲載している。

 「これこそ、現存唯一の源頼朝像である。」には
「世に源頼朝像とされる絵画や彫刻は数多いけれど、江戸時代以後につくられたものがほとんどで、似ているはずもない。例外は、東京国立博物館蔵にある重要文化財の「伝源頼朝坐像」(彫像)だが、これもじつは北条時頼坐像の誤りであった。また、大英博物館に源頼朝像がある。これは神護寺の「伝源頼朝像」を写したものであり、鎌倉末期ないし南北朝時代の作品とされてきた。賛があって、源頼朝の肖像と明記されているので、神護寺の国宝肖像が頼朝像であることの証拠にされてきたのだが、この肖像もじつは19世紀につくられたもので、なんと600
年以上も誤認されてきたのであった。そして唯一、鎌倉時代の造像であることが胎内銘に明記されている源頼朝坐像が、甲斐善光寺にあった。」、
「この頼朝像は、妻の北条政子の命によって造像され、」とある。

 「源頼朝像はこれだ!」には、
「世に源頼朝像と称される絵画や彫刻は数多いけれども,近世以後につくられたものが大部分である。当然,補陀洛寺(ふだらくじ)(鎌倉市)蔵源頼朝坐像(寺伝では自刻像)などは考慮外となる。中世,それも鎌倉時代に制作されたものはほんの僅かしかない。その一つは,東京国立博物館蔵の,重要文化財に指定されている「伝源頼朝坐像」(彫像)だが,『源頼朝の真像』第二章で明らかにしているように,本来,狩衣姿の北条時頼坐像であったのだ。その像の腹部に「石帯」と「平緒」をつけて束帯姿もどきにし,「源頼朝像」にしたのである。変改した時期は天文九(1540)年,寛文八(1668)年,そして文政十一(1828)年のいずれかであろう。また,大英博物館蔵の源頼朝像は,神護寺の「伝源頼朝像」を写したものであり,鎌倉末期の制作とされ,神護寺の「伝源頼朝像」を鎌倉初期の作品とする論拠とされてきた。しかし,碩学上横手雅敬(うわよこてまさたか)と私がほぼ同時(1996年)にそれぞれ論文を発表し,この源頼朝像は,早くても江戸時代後期,もしかすると明治時代の作品であることを明らかにしたのであった。
 そして唯一,残ったのが甲斐善光寺蔵の「源頼朝坐像」なのである。この「源頼朝坐像」には胎内銘があり,難読だが下図のような内容である。すなわち,この甲斐善光寺蔵の「源頼朝坐像」を調べると,次のようなものすごい作品であることがわかった。」とし、胎内銘の読み下し文が掲載されている。
 「右大将(源頼朝)が正治元年正月十三日にお亡くなりになった。尼二品殿(北条政子)の御沙汰によって、この御影(肖像)がつくられ、当善光寺の遊なにがしによって御堂へ遷された。両度(文永・正和)の火災によって(影堂が)焼失したけれども、御影の御躰の首の部分はなんとか取り出された。そうしているあいだに、観阿弥陀仏の沙汰によって、このように御修理がなされたのである。
 文保三(一三一九)年五月六日」

 なお、「これこそ、現存唯一の源頼朝像である。」にはないが、「源頼朝像はこれだ!」には「補陀洛寺(ふだらくじ)(鎌倉市)蔵源頼朝坐像(寺伝では自刻像)」が挟み込まれている。これは本書にもなく、おそらくは私のアマゾンの書評を読んで「源頼朝公八百年祭記念 源頼朝公展」の図録から抜粋して追加したものと考えられる。
 また、文保3年銘の胎内銘の読み下し文から、胎内銘がある本体と頭部は別々の部品で構成され、本体に頭部を差し込む構造であり、修理時に解体された部品の写真にある実朝像と同一である。頭部に銘がないことから真顔であるか検討がなされるべきである。

 黒田氏は頼朝像のキーポイント、キーウーマンは「北条政子」であることにはとっくに気付いている。理系であれば、「北条政子」に関係する事項を調査する。黒田氏はウィキペディア(Wikipedia)によれば日本中世史の絵画史料論、歴史図像学を専門とする。そうであれば、政子が創建した武蔵國井土ヶ谷村(現横浜市南区井土ヶ谷下町)にある西向山妙歓院乗蓮寺を知っているべきである。また、本当に相模國にある南向山帰命院補陀洛寺を知っていたとするならば、頼朝が創建した寺と政子が創建した寺のそれぞれの山号、「西向山」と「南向山」の関係性にも気付くべきである。そして、「補陀洛寺(ふだらくじ)(鎌倉市)蔵源頼朝坐像(寺伝では自刻像)」と「乗蓮寺(横浜市)蔵北条政子坐像(寺伝では自刻像)」の関係性(https://4travel.jp/travelogue/11092313)にも気付いたはずである。
 少し考えを巡らせると、補陀洛寺には開山像(寺伝では自刻像)と開基像(寺伝では自刻像)があり、京都・神護寺には文覚上人像と頼朝像が納められたことに類似性を見出してしかるべきである。文覚上人坐像(寺伝では自刻像)と頼朝坐像(寺伝では自刻像)、文覚上人像(肖像画)と頼朝像(肖像画)の関係である。その頼朝像(肖像画)が「伝」が付いており、それが足利直義像(肖像画)としているのであるから、この関係を気付かない訳はない。
 信濃善光寺「源三代将軍堂」由来の初代(頼朝)、2代(頼家)、3代(実朝)の3坐像と乗蓮寺尼将軍御影堂(江戸時代の道標には尼将軍御影塔)由来の尼将軍(政子)の坐像、この一連の鎌倉将軍4代の4像のうち初代と3代の2像だけを議論して満足している黒田氏が書いた「源頼朝の真像」が見すぼらしく見える。私がいう「比較すべき資料が欠落しており、読むに値しない本」の最大要因となっている。

 黒田氏が怠慢なのか、あるいは、この分野はレベルが低いのか。両方であろう。

 補足すると、理系であれば、論文や特許は検索できて当たり前である。首相が「日本はディジタル化では後進国」(https://dr-kimur.at.webry.info/202102/article_2.html)と断言しているが、厚労省は実にそれがぴったりと当てはまる。しかし、特許庁はアメリカで早くから構築されていた特許検索システムと同等なシステムを後追いであるが構築している。何のことはない、戦後の昭和になって特許・パテントが重要になり、各社で特許出願が促され、先願がないか調査した後に出願することになっていたために、各社で特許検索システムが既にあり、それを特許庁が発注したに過ぎない。たとえば、青色LED関係を調べれば、論文検索だけでは不十分であり、特許検索をすれば、「日亜化学 中村修二」で何件の特許が出願されているかも直ぐに判明し、それぞれの広報を読めば、「同分野における一般的な技術を有する者」が容易に理解できるレベルで記載されていることが期待される。あの田中耕一氏でもたった2件のUS Patenntを登録しており、その1件がその分野の大御所にレファレンス(参考文献)として引用されたことでノーベル化学賞のその年の1席開いていた3席目に座ることになった。田中氏が書いた論文があった訳ではないのである。

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