北条政子とは?
「【深掘り「鎌倉殿の13人」】ますます立場が重要となった北条政子は、情熱的な女性だったのか」(7/15(金) 5:01)には、歴史と文化の研究所の渡邊大門氏が、
「7月10日(日)の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、参議院選挙によって中止になった。せっかくなのでドラマの前半を振り返ることとし、北条時政について考えることにしよう。
■北条政子と頼朝の結婚
保元2年(1157)、北条政子は時政の娘として誕生した。治承元年(1177)、政子は当時伊豆に流人として流されていた源頼朝と結ばれた。父の時政が京都の大番役を務めており、不在のときの出来事だった。
時政は平家の威勢を恐れ、2人の結婚に反対したので、半ば駆け落ち同前での結婚だったという。政子は暗闇の風雨の中、頼朝のもとに向かったというが、いささか創作臭がする(『吾妻鏡』)。『吾妻鏡』の成立は北条氏が関与したので、政子を情熱的な女性に仕立て上げたのだろう。
治承4年(1180)、頼朝は打倒平氏の兵を挙げるが、石橋山の戦いで敗北。雌伏の期間を経て、頼朝は鎌倉へと入った。長男・頼家が誕生したのは、2年後のことである。
寿永2年(1183)、娘の大姫は木曽義仲の長男・義高と結婚した。ところが、元暦元年(1184)、頼朝は義仲を滅亡に追い込んだ。頼朝は義高を討つよう堀親家に命じ、親家の郎党・藤内光澄が義高を斬った。食家を受けた大姫は、病になった。
激怒した政子は頼朝に対し、光澄を討つよう強く迫った。頼朝は政子の意向を無視できず、光澄を斬るよう命じた。政子の強い影響力をうかがい知る逸話である。
■頼朝死後の政子
その後、頼朝は平家を滅亡に追い込むと、征夷大将軍に就任し、鎌倉幕府を作り上げた。しかし、建久10年(1199)1月、頼朝は不幸にも落馬して、そのままこの世を去った(頼朝の死因は諸説あり)。頼朝の跡を継いだのが頼家である。
頼朝の死後、幕府を支えたのが政子である。政子は出家して、尼御台と呼ばれるようになった。13人の御家人に対して、頼家を補佐するよう命じたのは政子だった。むろん、自らも頼家を補佐し、幕府の安泰に務めたのである。
しかし、頼家は失政が目立ち、人の上に立つ器ではなかった。建仁3年(1203)には、頼家の外戚だった比企能員を討伐。政子は愛する我が子の頼家に出家を命じ、伊豆の修善寺(静岡県伊豆市)に幽閉したのである。
■まとめ
政子に関する逸話(頼朝の結婚など)は、その情熱振りが伝わるものが多い。しかし、やや誇張があると考えられる点もあり、素直に首肯できない面もある。
ただ、頼朝死後の政子は、頼家あるいは実朝の後見として、大いに威勢を振るった。以後の政子については、追々取り上げることにしよう。」
と報じられている。
「北条時政について考えることにしよう。」とあるが、これは「北条政子」の誤植であろう。すなわち、「北条政子について考えることにしよう。」となる。
「食家を受けた大姫は、病になった。」とある。しかし、「食家」とは?日本語にはない。おそらくは「ショック」か?
平政子(保元2年(1157年)~嘉禄元年7月11日(1225年8月16日)))の顔は晩年ではあるが、承久の変(承久3年(1221年))の翌年(承久4年(1222年))のものが残っている。なお、承久4年4月13日(1222年5月25日)に、貞応に改元されている。
平政子像からは意思の強い女性であったことが伝わってくる。しかし、情熱的な女性だとは感じられない。
御台所の頃は夫・源頼朝の浮気には異常なまでに嫉妬したことが伝わっている。しかし、それは若い頃のことで、尼御台になってからはそうした気性は変わって行くものと考えられている。このことは山本みなみ氏が「史伝 北条政子 鎌倉幕府を導いた尼将軍」(NHK出版新書 2022年5月10日 第1冊発行)(2022年07月04日付「書評「史伝 北条政子 鎌倉幕府を導いた尼将軍」」(https://dr-kimur.at.webry.info/202207/article_27.html))で描こうとしてジタバタしているが、『吾妻鏡』を読んだところではそうした記述を探すのは無理のようだ。
もし、頼朝の後家、頼家、実朝の母親という立場だけで、所謂「尼将軍」として幕府権力を掌握出来たとしたら、それ相応の人物であったからであろう。
渡邊氏はこれまで以上に誤字・脱字・誤植がないように努めていただきたい。
そして、平政子のことであれば、運良く等身大の像が現存しており、その像も見ないで、顔も知らないままに、「政子は情熱的な女性だったのか」を論じるているのは滑稽でもある。
また、今頃になっても政子の顔も知らない者が政子云々を論じる資格がないことをこれまでに述べてきている通りだ(2022年01月16日付「博士でない教諭にはこの類の著作は無理-野村育世氏に向けて」(https://dr-kimur.at.webry.info/202201/article_36.html))。
二位尼将軍公御尊像(平政子座像)
「7月10日(日)の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」は、参議院選挙によって中止になった。せっかくなのでドラマの前半を振り返ることとし、北条時政について考えることにしよう。
■北条政子と頼朝の結婚
保元2年(1157)、北条政子は時政の娘として誕生した。治承元年(1177)、政子は当時伊豆に流人として流されていた源頼朝と結ばれた。父の時政が京都の大番役を務めており、不在のときの出来事だった。
時政は平家の威勢を恐れ、2人の結婚に反対したので、半ば駆け落ち同前での結婚だったという。政子は暗闇の風雨の中、頼朝のもとに向かったというが、いささか創作臭がする(『吾妻鏡』)。『吾妻鏡』の成立は北条氏が関与したので、政子を情熱的な女性に仕立て上げたのだろう。
治承4年(1180)、頼朝は打倒平氏の兵を挙げるが、石橋山の戦いで敗北。雌伏の期間を経て、頼朝は鎌倉へと入った。長男・頼家が誕生したのは、2年後のことである。
寿永2年(1183)、娘の大姫は木曽義仲の長男・義高と結婚した。ところが、元暦元年(1184)、頼朝は義仲を滅亡に追い込んだ。頼朝は義高を討つよう堀親家に命じ、親家の郎党・藤内光澄が義高を斬った。食家を受けた大姫は、病になった。
激怒した政子は頼朝に対し、光澄を討つよう強く迫った。頼朝は政子の意向を無視できず、光澄を斬るよう命じた。政子の強い影響力をうかがい知る逸話である。
■頼朝死後の政子
その後、頼朝は平家を滅亡に追い込むと、征夷大将軍に就任し、鎌倉幕府を作り上げた。しかし、建久10年(1199)1月、頼朝は不幸にも落馬して、そのままこの世を去った(頼朝の死因は諸説あり)。頼朝の跡を継いだのが頼家である。
頼朝の死後、幕府を支えたのが政子である。政子は出家して、尼御台と呼ばれるようになった。13人の御家人に対して、頼家を補佐するよう命じたのは政子だった。むろん、自らも頼家を補佐し、幕府の安泰に務めたのである。
しかし、頼家は失政が目立ち、人の上に立つ器ではなかった。建仁3年(1203)には、頼家の外戚だった比企能員を討伐。政子は愛する我が子の頼家に出家を命じ、伊豆の修善寺(静岡県伊豆市)に幽閉したのである。
■まとめ
政子に関する逸話(頼朝の結婚など)は、その情熱振りが伝わるものが多い。しかし、やや誇張があると考えられる点もあり、素直に首肯できない面もある。
ただ、頼朝死後の政子は、頼家あるいは実朝の後見として、大いに威勢を振るった。以後の政子については、追々取り上げることにしよう。」
と報じられている。
「北条時政について考えることにしよう。」とあるが、これは「北条政子」の誤植であろう。すなわち、「北条政子について考えることにしよう。」となる。
「食家を受けた大姫は、病になった。」とある。しかし、「食家」とは?日本語にはない。おそらくは「ショック」か?
平政子(保元2年(1157年)~嘉禄元年7月11日(1225年8月16日)))の顔は晩年ではあるが、承久の変(承久3年(1221年))の翌年(承久4年(1222年))のものが残っている。なお、承久4年4月13日(1222年5月25日)に、貞応に改元されている。
平政子像からは意思の強い女性であったことが伝わってくる。しかし、情熱的な女性だとは感じられない。
御台所の頃は夫・源頼朝の浮気には異常なまでに嫉妬したことが伝わっている。しかし、それは若い頃のことで、尼御台になってからはそうした気性は変わって行くものと考えられている。このことは山本みなみ氏が「史伝 北条政子 鎌倉幕府を導いた尼将軍」(NHK出版新書 2022年5月10日 第1冊発行)(2022年07月04日付「書評「史伝 北条政子 鎌倉幕府を導いた尼将軍」」(https://dr-kimur.at.webry.info/202207/article_27.html))で描こうとしてジタバタしているが、『吾妻鏡』を読んだところではそうした記述を探すのは無理のようだ。
もし、頼朝の後家、頼家、実朝の母親という立場だけで、所謂「尼将軍」として幕府権力を掌握出来たとしたら、それ相応の人物であったからであろう。
渡邊氏はこれまで以上に誤字・脱字・誤植がないように努めていただきたい。
そして、平政子のことであれば、運良く等身大の像が現存しており、その像も見ないで、顔も知らないままに、「政子は情熱的な女性だったのか」を論じるているのは滑稽でもある。
また、今頃になっても政子の顔も知らない者が政子云々を論じる資格がないことをこれまでに述べてきている通りだ(2022年01月16日付「博士でない教諭にはこの類の著作は無理-野村育世氏に向けて」(https://dr-kimur.at.webry.info/202201/article_36.html))。
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