北条泰時は建長寺の根本と言われる常楽寺に眠る-鎌倉市大船5

 「『鎌倉殿の13人』北条泰時ってどんな人?母は八重?のちに御成敗式目を制定」(JBpress 8/15(月) 12:01配信)には、鷹橋忍名で、

「■  母親は八重だった? 

 大河ドラマ『鎌倉殿の13人』も後半に入り、義時の長子である、坂口健太郎演じる北条泰時の出番も増えてきた。

 のちに名執権として名を馳せる泰時であるが、彼は抗争の時代をどのように生き抜いていくのだろうか。

 泰時は、平家が都落ちした寿永2年(1183)に誕生した。父・義時が21歳のときの子だ。長きにわたり苦楽をともにすることになる、瀬戸康史演じる叔父の北条時房は、8歳年上である。

 泰時の母親は、『系図纂要』には「官女阿波局」と記されているが、阿波局が誰なのかはわかっていない。

 ドラマの時代考証を務める坂井孝一氏は、泰時の母親は身分が低い、あるいは何か事情のある女性であった可能性を指摘し、ドラマで描かれたように新垣結衣が演じた八重が泰時の母親であったのではないかという仮説を提示している(『考証 鎌倉殿をめぐる人々』)。

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■ 三浦義村の娘との恋の行方は? 

 泰時は12歳で元服しているが、そのときに帽子親を務めたのが、伯父にあたる源頼朝である。

 建久5年(1194)2月に、御家人たちが居並ぶ中で行われた元服の儀において、泰時は頼朝から「頼」の一を授かり、頼時と称するようになった。

 頼朝の死後、建仁元年(1201)頃までに泰時と改名することになるが、その明確な時期と理由は不明である(ドラマでは源頼家の命令での改名)。

 元服の儀の場で、頼朝は佐藤B作が演じた三浦義澄に対し「泰時を婿とするように」と命じ、義澄も承諾している。

 この約束は建仁2年(1202)8月に実現し、義時は義澄の子の山本耕史演じる三浦義村の娘・矢部禅尼(ドラマでは福地桃子演じる「初」)と結婚した。泰時、20歳のときのことである。

 ドラマでは恋愛のエピソードが描かれていたが、北条氏と比企氏の対立が深まった時期であり、二人の婚姻は、三浦氏との連携を強めるためのものであったとみられている。

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 泰時と義村の娘との間には、翌建仁3年(1202)に、長男の北条時氏が誕生した。

 ところが、二人は間もなく離婚。時期は不明だが、泰時は武蔵国の御家人である安保実員の娘と再婚し、建暦2年(1212)に次男の時実が誕生している。

 しかし、泰時はこの二人の息子に先立たれることになる。次男・時実は16歳で家人の高橋二郎によって殺害され、長男の時氏も28歳で病死してしまうのだ。

 息子二人を失った泰時は、時氏の遺児である孫の北条経時(のちの四代執権)を、後継者として育てていく。

■ 勅撰歌人だった泰時

 ドラマでは誠実な人柄で、何でも器用にこなす泰時だが、『吾妻鏡』にもそんな姿を彷彿させる記事がみられる。

 泰時が13歳の時、鶴岡八幡宮で流鏑馬の儀が行われた際には、射芸に堪能な16人が選抜されたが、泰時もその一人に選ばれている。

 19歳のときには、大風によって鶴岡八幡宮の宮門が倒れ、民が飢饉を憂うなか、金子大地演じる源頼家が蹴鞠に耽るのをみかねて、頼家の近侍である中野能成に、諌言するようにうながしている。

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 これが頼家の耳に入って不興を買い、泰時は伊豆国北条に下った。

 そのとき北条の地は不作で、領民は飢饉に苦しんでいた。そこで泰時は貸し付けの証文を焼き、米や酒などを振る舞った。人々は手を合わせ、泰時の子孫の繁栄を祈ったという。

 ただし、『吾妻鏡』は北条氏による幕府支配を正当化するため、泰時を随所で顕彰しているともいわれ、この記事も脚色を疑う声もある。

 また泰時は勅撰歌人であった。

 泰時の詠歌は、『新勅撰和歌集』、『続後勅撰和歌集』、『続古今和歌集』『新拾遺和歌集』などの勅撰集に、二十余首が入集されている。

■ 武人としての泰時

 泰時の初陣は、建仁3年(1203)9月に勃発した「比企氏の乱」だとみられている。泰時、21歳のときのことである。

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 建暦3年(1213)5月には、横田栄司演じる和田義盛らとの激闘「和田合戦」を戦い抜いている。

 鎌倉初の本格的市街戦である和田合戦において、31歳の泰時は、叔父の時房とともに若宮大路を守り、勝利に貢献した。

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 武人としての泰時のもっとも華々しい活躍は、彼が39歳のときの「承久の乱」だろう。

 承久3年(1221)、尾上松也演じる後鳥羽上皇が北条義時の追討を命じ、幕府は京への進撃を決めた。泰時や時房らが率いる幕府軍が京へ攻め上り、上皇方に圧勝している。

 泰時と時房は承久の乱の勝利後、京都の六波羅に入り、戦後処理を行った。これが、鎌倉幕府が京都に置いた西国統治機関「六波羅探題」の発足とされる。

 泰時は六波羅北方、時房は六波羅南方に就任し、朝廷との交渉や西国支配を担った。

 だが、元仁元年(1224)6月13日に父・義時が急死すると、泰時と時房は鎌倉に呼び戻された。

 泰時の異母弟には、義時の正室・伊賀の方(伊賀朝光の娘)が産んだ北条政村や、比企朝宗の娘(ドラマでは堀田真由演じる比奈)が産んだ北条朝時がおり、彼らも義時の後継者候補であったが、泰時は北条政子の後押しを受け、家督を相続し、三代執権に就任した。泰時、42歳のときのことである。

 義時の遺領の配分は、家督である泰時が行った。泰時は兄弟の融和を優先し、自分の相続は少なく、弟や妹たちには多く与えたという。

■ 武家政治の理想といわれた泰時

 三代執権となった泰時は、政子の死後、初代連署(両執権)に就任した時房とともに、執権政治を軌道に乗せていく。

 寛喜2年(1230)から翌年にかけて起こった「寛喜の大飢饉」ではみずからの守護国である伊豆・駿河の両国で出挙米を施すように指示する徳政を行い、貞永元年(1232)には、公平な裁判を目指して御成敗式目(貞永式目)を制定した。

 泰時は都市鎌倉の整備も進めている。鎌倉と六浦津の間の道を開削する工事に遅れが出た際には、泰時自ら土石を運んだと伝わる。

 また泰時は、後述する勧進聖による、和賀江島の港の築造にも協力した。

 仁治元年(1240)正月に時房が66歳で死去すると、泰時は後任の連署を置くこともないまま、2年後の仁治3年(1242)4月に病に罹り、6月15日に60歳で没した。

 泰時の治世はおおむね平和で、後世長く武家政治の理想と仰がれた。

 ドラマの泰時も、今は年若いため些か頼りない面も見られるが、迷いながら躓きながらも、名執権への道を歩んでいくのだろう。

■ 北条泰時ゆかりの地

 ●和賀江島

 現存する日本最古の築港遺跡。鎌倉市の材木座海岸の延長地域に浮かぶ。

 貞永元年(1232)、勧進聖の往阿弥陀仏が、泰時の協力を得て築造した。

 以前は、遠浅のため船の着岸や、船荷のあげおろしが困難なだけでなく、船が難破することも多かった。しかし、和賀江島が造られたことにより、巨大な唐船も着岸できるようになり、日宋貿易が活発に行われるようになったのだ。

 現在は、石のがれきが残るのみである。

 ●常楽寺

 鎌倉市大倉にある寺院。北条泰時が、妻の母親の供養のために建てたのがはじまりだ。

 当時は、粟船御堂(あわふねみどう)と称されていたが、泰時の没後、彼の法名(常楽院殿)から、常楽寺とつけられた。本堂裏には泰時の墳墓が佇んでいる。

 この寺には泰時の孫の五代執権・北条時頼が、泰時の追善のため造ったと伝わる銅鐘(国の重要文化財)もある。

 ●宇都(津)宮辻子幕府跡(宇津宮稲荷神社)

 泰時は北条政子の死を機に、嘉禄元年(1225)、大倉から幕府を移転した。それが宇都(津)宮辻子幕府である。

 場所は、鎌倉市小町の宇都宮稲荷神社の一帯と推測され、神社の前には幕府跡の史跡碑が置かれている。

 宇都宮稲荷神社は、もともとは頼朝の御家人で、宇都宮二荒山神社の神職であった宇都宮朝綱の邸地で、宇都宮より御霊を分霊して祀ったのがはじまりだという。」

と報じられている。

 「常楽寺 鎌倉市大倉にある寺院。」とあるが、「鎌倉市大倉」という地名は現在では存在していない。「鎌倉市二階堂」になっている。しかし、「大倉」は「大船5」の間違いである。

 浄楽寺の山号「粟舩山」の「粟舩」がなまって「大船」になったとされる。

 「本堂裏には泰時の墳墓が佇んでいる。」とあるが、墓石が墳墓なのか?

 鷹橋忍氏は「常楽は建長の根本なり」と言われた常楽寺にも行ったことがないのだろう。山門の扁額には「建長素堂」とある。

 仏堂天井には雲竜図も描かれている。

 なお、大姫のいいなずけであった木曽義高の墓も境内には残っている。

 また、大銀杏があったが、いまだひこばえのままである。鶴岡八幡宮寺に倣って植えた銀杏の木であろうか?

src_10428653.jpg          浄楽寺山門に掛かる「粟舩山」の扁。「建長素堂」とある

src_18301886.jpg          昭和13年(1938年)に倒尽した大銀杏のひこばえ

src_18301823.jpg          仏堂天井の雲竜図

src_18815468.jpg          北条泰時の墓

src_18301908.jpg          粟船山中腹の姫宮(泰時の娘)の墓

src_18301911.jpg          「木曽清水冠者義高公之墓」

src_18301912.jpg          粟船山山頂の木曽義高の墓

 

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