岩垂邦彦は大阪で60Hzの交流送電を実現 しかし、その後に東京では50Hzの交流送電が始まる

 「NEC創業者、岩垂邦彦がエジソンvsテスラの「電流戦争」で下した決断」(日経ビジネス 7/10(日) 7:00配信)には、宇佐美フィオナ氏が、

 「江戸と明治の境に育つ
発明王トーマス・エジソンの下で働き、後にNECの創業者となった岩垂邦彦(いわだれくにひこ)。松下幸之助や安藤百福と比較すると起業家としての知名度は劣るかもしれない。だが、技術者としての生きざまもさることながら、国家に忠を尽くした志や経営力は比類なきものがあった。彼が興したNECに至るまでの半生をひもといていく。

 岩垂邦彦は1857年(安政4年)、豊前国豊津(現在の福岡県京都郡みやこ町)に生まれる。実父は小倉藩士の喜田村修蔵。岩垂家から喜田村家の養子に入った人物だ。だが、実家の岩垂家に跡継ぎが生まれず、修蔵の次男だった邦彦が養子として岩垂家に入り、家督を継ぐことになる。それが岩垂邦彦(以下、岩垂)だ。

 だが、1868年(明治元年)、岩垂が11歳のとき事件が起こる。実父の喜田村修蔵は、第2次長州征伐のときに小倉藩で諸藩との外交交渉を担い、維新後は藩を代表して、明治政府の公儀所の公儀人となっていた。だが、彼の活動をよく思わない藩内の反対派によって東京で暗殺されてしまう。

 岩垂は父の敵討ちをすると決め、兄と共に東京に赴く。当時は敵討禁止令が発布される前であり、敵討ちを当然とする文化的背景もあった。だが、実父の仇(かたき)とはいえ、岩垂は元服前の少年だ。また、岩垂家を継ぐことになっていたため、敵討ちは必須ではなかったはず。だが、岩垂は命を落とすことを覚悟の上で東京へ向かったのだ。

 結果的に、敵討ちは実現しなかったという。その理由については、明らかにはなっていないが、岩垂は失意のうちに小倉に帰郷することになる。

 その後、岩垂は学問に打ち込んだ。1870年(明治3年)には小倉藩が設立した育徳館(現在の福岡県立育徳館高等学校)の分校の洋学校に入学。洋学校では、外国人講師から英語で授業を受け、そこで頭角を現す。卒業後、1875年(明治8)年に上京し、翌年に工部省工学寮(後の東京大学工学部)に官費入学する。

渡米し、エジソンの下で働く
 1882年(明治15年)に工部大学校(工学寮は在学中に工部大学校へ改組)を卒業し、工部省の電気技師として勤務する。その後、29歳になった岩垂は1886年(明治19年)には同職を辞し米国に渡ることとなる。

 渡米の目的は、米国の最新電気技術を学び取り、将来日本で応用するためだった。彼は、発明王トーマス・エジソンが創立したニューヨークのエジソン・マシンワークス(後のゼネラル・エレクトリック)に入社する。

 エジソン・マシンワークスは研究機関としての側面を持ち、通信や物理学、電気技術などの基礎研究をしており、後にノーベル賞受賞者を輩出するほどの先端研究施設だった。岩垂は期待以上の最新鋭の技術を間近で学ぶこととなる。

 先端技術を学び、日本へ持ち帰る機会。それは意外に早いタイミングで訪れることとなった。

日本の送電の父となる
 エジソンが関わった発明品として、キネトスコープ(初期の映画鑑賞装置)、蓄音機などが挙げられる。安定性が高く、実用的な白熱電球を開発したことも有名だ。それらと並んで社会に大きな影響を与えた発明品が電気を送るシステム、すなわち送電技術だ。

 エジソンが開発した送電技術は「直流送電」と呼ばれ、大都市に敷設していくことになっていた。自らが技術を開発し特許や機器の製造設備も独占していたため、敷設が進めば莫大な富が得られるという算段だった。

 だが、同時期にニコラ・テスラによって「交流送電」技術が開発される。交流送電は直流送電と比較し、遠隔地から高電圧で送電し、利用者が使う前で容易に変圧できたため送電ロスが少なく効率がよかった。両者は自分の技術が最適だと論争することとなり、エジソンとテスラの間で「電流戦争」が勃発。どちらの方式が優れているかの論争となっていく。

 さて、話は日本に飛ぶ。1888年(明治21年)、大阪電灯が国内3番目の電力会社として設立される。岩垂は同社の技師長の就任を要請される。このとき大阪電灯を悩ませたのが送電方式として何を選ぶかだった。大阪電灯より前に設立された東京電灯や神戸電灯は直流送電を選択していたが、どの方式が最適かの判断は難しかった。直流と交流どちらを選ぶべきか、プロフェッショナルの岩垂にその判断が委ねられることとなった。

さよならエジソン
 電流戦争のまっただ中、岩垂はエジソンのお膝元で技術を学んでいた。このため、普通に考えれば彼が直流送電を選ぶと誰もが思っただろう。

 だが、岩垂は真に技術者であった。置かれた立場に忖度(そんたく)せず、フラットにどちらの技術が優れているのかを基準に決断した。交流送電は、送電効率が高く安全性においても優れており、コストメリットもあるという判断だった。

 先端技術を学ぶ機会を与えてくれたエジソン側に忠を尽くすべきか、故郷である日本のこれからに忠を尽くすべきか。大いに悩んだことは想像に難くない。だが、彼が選んだのはライバル会社が主導していた「交流送電」だった。大阪電灯は岩垂の決定を全面的に採用し、交流発電機や送電設備を導入することになった。

 エジソン・マシンワークスとしては面目を潰されてしまった。日本の一技術者だった岩垂を米国で働かせたのは、日本というマーケットをとりたいという下心もあったはずだ。それにもかかわらず、直流送電が選ばれなかったことに衝撃を受けたのではないだろうか。

 直流送電を推進するために、当時、エジソン陣営が進めた米国内でのロビー活動やPR活動はすさまじかった。高電圧となる交流送電が危険であるという空気を醸成するために、動物実験をしたり、誤った情報を流したりもした。それにより、岩垂が交流方式を選択した当時は、直流送電が主流となるとみる風潮すらあった。

 交流を主導したことで、岩垂はエジソン・マシンワークスの技術者からの風当たりが強くなり、退社せざるを得なくなった。今では交流が送電方式の主流となっていることからも、岩垂の判断は間違っていなかったはずなのだが……。

 1894年(明治27) 、岩垂は大阪電灯を退職する。37歳になった岩垂は1人で岩垂電気商店を設立、独立の道を歩むことになった。」

と報じられている。

 それにしても、宇佐美フィオナ氏はどれほどこうした記事の執筆には向いていないのか。ダントツで最低のレベルにあることは確実である。

 交流送電を話題にしたこのような長文にも拘わらず、50Hzとか60Hzとかその周波数が出て来ないのにお目に掛かったのは初めてのことだ。そのため、宇佐美フィオナ氏には驚くというよりは呆れてしまう。

 明治22年(1889年)に、岩垂は大阪電灯に周波数が60Hzの米国トムソン・ヒューストン・エレクトリック社製の交流発電機や送電設備を導入した。その後に、直流送電と交流送電の問題が決着し、明治28年(1895年)に東京電灯も遅れて交流送電を開始したのであるが、そのときに、岩垂憎しで、周波数が50Hzのドイツ、AEG製の交流発電機を導入した。

 これが原因で、日本国内の送電インフラでは西日本では60Hz、東日本では50Hzとなってしまい、11年前の東日本大震災直後や、昨年、今年と電気の供給が切迫した際に国内で電気を融通することを難しくしてしまっている。

 交流送電の50Hz/60Hz問題は鉄道軌道の狭軌の採用に続く国内インフラの失敗例となってしまった。

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